戸田正宏

経歴/
昭和27年8月6日生まれ
昭和46年3月:
山形市立商業高等学校卒業
昭和47年3月:
日本菓子専門学校卒業
昭和47年4月~51年8月:
東京都内の菓子店を渡り歩き、菓子職人としての腕を磨く
昭和51年9月:
戸田屋菓子店入社
昭和52年3月6日:
妻とし江と結婚/モラロジー維持員となる
平成7年7月3日:
有限会社戸田屋設立/代表取締役就任
平成22年8月:
句集「新樹光」出版
趣味/
俳句・陶芸・美術鑑賞・音楽鑑賞・古寺巡礼・茶の湯・哲学等。特に最近は俳句に傾倒している。

菓人のひとりごと

菓人のひとりごと 第7章

随想 心のふるさと

 父母は終戦直後、見合いで結婚しました。母の言うことには、たった一度のお見合いで、手が大きいからきっと働き者に違いない、との理由から、親が勝手に話を進め、その後、結婚式まで一度も会う機会がなく、顔も忘れてしまったほどだったそうです。母はお見合いの席上、お酒が好きかどうか質問をしたそうですが、ほとんど好まない、との返答だったそうです。ところがいざ所帯をもってみると大変な大酒呑みで、だいぶ苦労を掛けられたようです。事実、私も子供の時分、父の酒癖の悪さに不快な思いを何度もさせられました。普段は大人しい父でしたので、酒が入るとその分余計に日ごろの鬱積が表面化し、溺れていったのでしょう。

 父は信仰心が篤く、特に出羽三山へは毎年欠かさず参詣しておりました。父の実家の菩提寺は浄土宗で阿弥陀様信仰ですが、父は日蓮の教えに痛く共鳴し、のめりこんでしまったようでございます。晩年は地元に暮らす老尼のお世話をしていたほどです。

 父は兵隊として海軍に所属していたようですが、私に戦争の話は一切語りませんでした。まだ二十歳そこそこの青年が体験した忌まわしい壮絶な出来事、悪夢を断ち切ろうと酒や神仏にすがりついたのかもしれません。

 母は、酔って管を巻く父を相手にはせず、寝込むまでひたすら耐え辛抱し、翌日、大人しくなった父に昨夜の出来事をいちいち穿り返して仕置きをしておりました。余程耐え切れない時などは黙って一人で外出し、買い物などをして憂さを晴らしていたようです。取り残された父はオロオロするばかり。私も母が居なくなったときの不安と寂しさに傷つき、悲しい思いをしました。


 父は菓子屋の次男坊でしたので、分家として母と二人で現在の店を開業しました。とはいえ、戦後何もないところから、実家から譲り受けた赤鍋ひとつで、闇市で仕入れたもち米を水飴に加工したのが当店の始まりとお聞きしております。世の中、甘いものに飢えていたので作る片端から飛ぶように売れた時代です。寝食を忘れて働いたことでしょう。その後職人を雇い、事業拡大を試みたようです。「背負子」が大勢やってきて、菓子が出来るのを待ちきれず、我先に奪い合って買っていったものです。

 お店が遊郭街の真ん中にありましたので、綺麗な姐さん達がこの町を潤していたことをぼんやりと覚えています。父がこの町にしようと決めたに違いありません。母の叔母が遊郭を経営しておりましたので、何かと心強く感じたことでしょう。その後法律が変わり、姐さん達は居なくなってしまいましたが、この町が好きで生涯過ごした人も沢山おり、盆踊りの季節になると昔取った杵柄宜しく、三味線や笛太鼓で祭りを大いに盛り上げてくれたものでございます。山形は戦災を免れましたので、木造の立派な三層の廓跡が往時を物語っていましたが、再開発の波に呑まれ今では全くその影すら見る事はございません。

 当時はまだ徒弟制度が全盛でした。職人さんやお弟子さんが七、八人住み込んでおりましたので、大所帯の大変にぎやかな家庭でした。母は働き者で、仕事や家事に身を粉にして働いていましたが、ある日私の家に家政婦がやってきました。献立を訊ねると、麺類なら何でも「うどん」と答える栃木訛りのちょっと変わった人でしたが、その日から我が家の家事は家政婦がやってくれるようになりました。私や住み込みの人達の、母親代わりを務めてくれましたが、子供心に一抹の寂しさを禁じえません。

 母親代わりといえば、リヤカーで野菜を売りに来ていた町外れの農家のおばちゃんが、親から構ってもらえない私を不憫に思ったのか、大そう可愛がられ、面倒を見てもらいました。夏休みなどはリヤカーに乗せられ、よく泊まりに行ったものです。畦道をおばちゃんと一緒になぞなぞや童謡などを歌い、蛍狩りをしながらの楽しい夜道です。蚊帳の中では糠味噌臭いおばちゃんに抱かれ、すっかり安心して眠りに付いたものです。母にも優る二番目の母親として今も心に生き続けております。

 父は呑ん兵衛でしたが、大変な親孝行者で、親の為なら我をも省みず孝養を尽くしていたようです。父の実家は、かつて最上川の舟運で栄えた大石田町にあります。十七世紀に近江の国から先祖がこの地に住み着き、現在の当主で十六代を数える旧家です。旧家ゆえに彼の戦争で散財をし、また兄弟も多く、当時は経済的にも逼迫していたようですが、父が病気がちの親に代わってきょうだい達の面倒をよく見ていたようです。兄で実家の当主が戦後まもなく結核で入院した時など、嫌がる周囲をよそに率先して看病に努め、あるいは弟が東京の専門学校に進みたいと言っては学資の一部を援助したりと、物心共に実家を支えていたようでございます。私が小学生のころ、最上川が氾濫し、実家が床上浸水をしたことがあります。父は急いで災害現場へ駆けつけ、復旧作業に汗を流しました。その時に家から帯を一本持参したそうです。寝たきりであった祖父を帯で背負い、安全なところへ非難さす為と聞いて、皆驚かされたものです。

 私のふるさとは愛する父母そのものです。最近よく父に似てきたといわれます。父ほど呑ん兵衛ではなく、親孝行でもありませんが、周囲の人は仕草から性格まで父親を感じ取っているようでございます。